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となりの高津川さん

2022年02月25日

日本遺産「中世日本の傑作 益田を味わう -地方の時代に輝き再び-」

高津川下流に位置する益田市では、令和2年6月19日、中世の益田にまつわるストーリー「中世日本の傑作 益田を味わう -地方の時代に輝き再び-」が日本遺産に登録されました。

 

ストーリー概要

海に国境のない時代―中世。山陰地方の西端のまち益田は、その地理と地域資源を活かして、大きな輝きを放っていました。

人々は、中国や朝鮮半島に近い地理と、中国山地がもたらす材木や鉱物などの地域資源を活かして、日本海交易を進めました。領主益田氏は、自らも交易に積極的に関与し、優れた政治手腕を発揮して平和を実現しました。経済的繁栄と政治的安定のもと、東アジアの影響も受け、どこにもない文化が花開きました。

現在の益田にはその歴史を物語る、港、城、館の遺跡と景観、寺院や神社、町並み、庭園、絵画、仏像などの一級品がまとまって残っています。

このように、時代と地域の特性を活かして輝いた益田は、中世日本の傑作と言え、全国でも希有な中世日本を味わうことのできるまちです。

益田氏の館・三宅御土居跡

 

【地方の雄・益田】

山陰地方の西端に位置する益田市は、奥深い中国山地を抱え、日本一の清流・高津川と益田川が豊かな山あいを流れ出て沖積平野を形づくり、海岸線には美しい松林の砂州が伸びる、海陸要衝の地です。これらの自然は、美しい景観のみならず、魅力的な歴史も生み出しました。

今から800から400年前、地方に領主が勢力を誇り、海に国境のない時代―中世の益田は、その地理や地域の資源を最大限に活かして、一際大きな輝きを放っていました。

 

【日本海に漕ぎ出した益田の人々】

中世の益田平野では、高津川が益田川に合流しており、砂州の発達とあわせて、河口域が潟湖のようになっていました。この地形は日本海の荒波や強風を避ける格好の条件でした。このため、中世の高津川・益田川河口域は港町として賑わいました。

砂州の南側から発見された中須東原遺跡は、そのような港町の遺跡の代表例です。旧河道に沿って石が敷き詰められた荷揚げ場跡の内側に、鍛冶場をはじめとする町場が建ち並ぶ様子が発掘成果から浮かび上がりました。また、出土した陶磁器は、国内はもとより、西は朝鮮半島や中国、南は東南アジアとの交易を物語っています。

何を輸出していたのかも、河川が教えてくれます。高津川やその支流匹見川の上流の豊かな中国山地、たとえば匹見は良質な材木を豊富に産出します。材木は川下しされ、さらに他地域へと積み出されました。また、益田川上流の都茂鉱山の鉱物も同様に交易品であったと考えられます。

中世の益田はヒトとモノの交流の最前線であり、人々はその豊富な地域資源と中国や朝鮮半島に近い立地条件を活かして日本海に漕ぎ出し、積極的に国内外との交易に取り組んでいたのです。

益田平野。手前の日本海に高津川(右)益田川(左)が注ぐ。益田川河口の砂州の内側に中世の港町の遺跡(中須東原遺跡)がある。

 

【領主・益田氏の実力】

益田川をさかのぼり、平野部から山間部へと入る手前に、歴史ある町並みが残っています。この町並みを築いたのは、中世の益田を治めた領主益田氏です。

益田氏は優れた政治手腕を発揮して、益田の平和を維持しました。たとえば、戦国大名毛利氏と関係が悪化した後、和睦する際には、朝鮮半島の虎皮をはじめとする莫大な贈り物をし、蝦夷地(北海道)の昆布や数の子、地元の特産品である清流・高津川の鮎やうるかなどを材料にした豪華な料理を振る舞いました。自身の日本海交易への積極性と経済力を印象づける狙いがあったと考えられています。実際、以後、毛利氏から一目置かれており、非常に鮮やかな手法と言えます。

その威勢は、山城・館の遺跡や城下に見ることができます。東西に5mの土塁を持つ館・三宅御土居の遺跡、一つの山をまるまる要塞化した山城・七尾城の遺跡は、同規模の領主と比べてはるかに大きく、また後述する特徴的な形をしています。

匹見の森林。材木は川下しされ、河口部の港から国内外へと積み出されたと考えられている。

 

【花開いた独特の文化】

繁栄と平和のもと、もともとの地域の文化に、京都や山口、東アジアの影響も受け、益田には優れた文化が花開きました。

益田氏は、寺社を手厚く保護し、創建した時宗・萬福寺の本堂や、再建した地域の氏神・染羽天石勝神社の本殿は、当時の寺院・神社建築を代表するような美しい形をしています。

平安時代から中世を通じて、時代ごとに個性的な仏像が現存しています。それらは中央の流行を取り入れつつも、地方色も色濃く残しています。

室町時代には、中国に渡って水墨画を極めた雪舟が益田に招かれました。雪舟は萬福寺と崇観寺(後身寺院が医光寺)に庭園を築き、益田兼堯像を描きました。これらはいずれも雪舟の代表作とされ、二つの庭園は四季折々に異なる美しさを見せます。

交易で入手した茶壺等が彩りを添えます。萬福寺に伝わる華南三彩壺は、東南アジアとの貿易で入手したと考えられています。

 

【中世を味わえるまち益田】

益田氏は江戸時代(近世)初めに残念ながら益田を去らざるを得なくなり、益田は江戸時代に城下町になりませんでした。しかし、これにより近世の城下町として再開発されず、中世の町並みがそのまま残りました。

現在の益田の町並みは、日本の他の歴史ある町並みとは少し様子が異なっています。たとえば、長靴を横に倒したような形と言われる館跡や、Y字形の山の尾根に築かれた山城跡。直線と曲線が入り交じった街路など。二回しか曲がっていないのにもとの場所に戻ることも。それは、中世に、地形や、古代以来の神社や道路などを大きく改変することなく築かれた町並みが、現代に至っているからです。益田は、全国で最も中世の遺産や町並みが伝わるまちと評価されています。

時代と地域の特性を活かして輝いた益田の歴史は、中世日本の傑作と言え、その多種多様で優れた一級の遺産をまとまって伝える益田は、中世日本を味わえるまちです。

 

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